年 号 | 西 暦 | 干 支 | 年 令 | 主 要 事 項 |
道光24 | 1844 | 甲辰 | 1 | 8月1日、浙紅省孝豊県彰吾村(別名半日邨)に生まれる。 孝豊県はもと安吉県に属する。 |
道光28 | 1848 | 戊甲 | 5 | この年より父から読書の手ほどきを受ける。 |
咸豊3 | 1853 | 癸丑 | 10 | この年より隣村の学塾に通い読書する。 |
咸豊6 | 1856 | 丙辰 | 13 | この頃好んで刻印を学ぶ。 |
咸豊7 | 1857 | 丁巳 | 14 | この年より父に刻印を学ぶ。 |
咸豊10 | 1860 | 庚申 | 17 | 太平天国の乱が安吉、彰吾に及び、父・辛甲と避難流浪する。 |
同治元 | 1862 | 壬戌 | 19 | 2月頃、元配章氏、乱中に病死する。 |
同治3 | 1864 | 甲子 | 21 | 秋、父と彰吾村に帰る。 |
同治4 | 1865 | 乙丑 | 22 | 県学官の勧めで郷試に応じ、秀才となる。 |
同治5 | 1866 | 丙寅 | 23 | 同里の施旭臣に従って詩法を学ぶ。 同時に名家の書法・篆刻を学び、金石学を特に愛好する。 |
同治7 | 1868 | 戊辰 | 25 | 父、安吉に病没する。 |
同治8 | 1869 | 己巳 | 26 | この頃、篆刻を学び、金石学に従事する。 |
同治9 | 1870 | 庚午 | 27 | この年の冬、安吉に帰る。名を圃と変える。 |
同治11 | 1872 | 壬申 | 29 | 金傑に随い上海に往き、また蘇州に遊び芸苑の名流の知遇を受け、この頃、高之と知り合う。 秋、杭州に往き兪に学ぶ。 浙江省帰安県菱湖鎮の施洒(季仙)と結婚。 剣侯・香圃・逸光と号し、堂号を蕪園斉雲館という。 |
同治12 | 1873 | 癸酉 | 30 | 長男・育(半倉)生まれる。 30歳から40歳に至る間、多く呉俊、蒼石、倉項、昌石、苦鉄と署款する。 再び杭州へ赴き詁経精舎に入る。 呉伯滔と知り合う。 安吉で潘芝畦に従って画梅を学ぶ。 |
光緒2 | 1876 | 丙子 | 33 | この頃、斉雲館印譜を作る。 |
光緒3 | 1877 | 丁丑 | 34 | 高之の紹介で任頤(伯年)に画法を問う。 |
光緒6 | 1880 | 庚辰 | 37 | この頃、父・辛甲死去。 蘇州で楊見山と交を訂し、師事せんとしたが、見山が固辞し、兄弟として長く親交した。 蘇州にて呉雲を知り、呉秋農、金心蘭、顧茶邨、胡三橋、方子聴とも知り合う。 呉雲の兩罍軒に寄寓する。 |
光緒7 | 1881 | 辛巳 | 38 | 初春、喜興に至り、杜楚生、沈養和とともに南湖に舟を浮かべ、詩を草庵の壁に題した。 近作を集拓して「鉄書山館印存」と名付ける。 |
光緒8 | 1882 | 壬午 | 39 | この頃、友人の援助により江蘇省の小官となる。 蘇州に老母、妻子を迎える。 金傑により古瓦缶を贈られ、缶廬と号す。 |
光緒9 | 1883 | 癸未 | 40 | 40歳から50歳の間、多く呉俊、阿倉、倉碩、昌石、昌碩、缶廬、缶、老倉、辛鉄と称す。 3月、天津に滞在。任伯年と知り合い、「蕪青亭長図」を贈られる。 |
光緒10 | 1884 | 甲申 | 41 | 削觚廬印存の楊の封面、題詩成り、爾後数年にわたり同好に頒布す。 春、晋磚を得て堂号を禅甓軒と名づく。 |
光緒11 | 1885 | 乙酉 | 42 | 「懐人詩」を作り、17人の師友を懐念する。 |
光緒12 | 1886 | 丙戌 | 43 | 任頤、呉昌碩のために饑看天図を画き、楊、詩を題す。「十二友詩」を作る。 |
光緒13 | 1887 | 丁亥 | 44 | 6月上海に行き、任伯年が呉昌碩のために「棕蔭納涼図」を作る。 友人の資金援助で、上海県丞の官職を買い、上海に転居。 |
光緒14 | 1888 | 戊子 | 45 | 長男・育(半倉)16歳で没。 8月、娘・丹(次蟾)誕生。 任伯年「酘寒尉像」を描く。 |
光緒15 | 1889 | 己丑 | 46 | 「缶廬印存初集」を編す。 缶廬印存一集、4冊刊行。 |
光緒16 | 1890 | 庚寅 | 47 | 呉大澂と知り合う。 |
光緒17 | 1891 | 辛卯 | 48 | 日下部鳴鶴を知る。時に鳴鶴54歳。 |
光緒18 | 1892 | 壬辰 | 49 | 上海南の升吉里に住み、知県の官職を買う。 |
光緒19 | 1893 | 癸巳 | 50 | 缶廬詩坿別存の自序成る。 50歳から60歳の間、俊卿・昌碩・滄石・缶・老缶・老蒼・苦鉄と署款している。 「缶廬詩」刊行。 |
光緒20 | 1894 | 甲午 | 51 | 日清戦争に際し、呉大澂の幕僚に迎えられ、山海関に出動する。 この頃、名の俊を俊卿に改める。 北京在り、翁同に詩と印譜を贈る。 |
光緒22 | 1896 | 丙申 | 53 | このころリューマチを病み、落款に病臂、また廬の字を(やまいだれ)に作る例を散見する。 |
光緒23 | 1897 | 丁酉 | 54 | 河井仙郎(廬)、日本より上海に作品を寄せ教えを求める。 |
光緒24 | 1898 | 戊戌 | 55 | 11月常熟へ行き、翁同に印章を贈るも面会できず。 |
光緒25 | 1899 | 己亥 | 56 | 臂痛のため、この頃から70歳まで篆刻の制作が激減する。 |
光緒26 | 1900 | 庚子 | 57 | 河井廬が羅振玉・汪康年の紹介により門下に入る。廬30歳。 「缶廬印存二集」を編す。 |
光緒28 | 1902 | 壬寅 | 59 | 観月得斎徐氏所蔵印存。 |
光緒29 | 1903 | 癸卯 | 60 | 継母・楊氏77歳で没。 長尾雨山、松崎鶴雄の紹介により交を結ぶ。 |
光緒30 | 1904 | 甲辰 | 61 | 60歳から70歳の間、多く昌碩・倉碩・苦鉄・破荷・老缶・缶翁と款署している。 趙起、弟子となる(30歳)。 居を蘇州桂和坊に移し、斎を癖期堂と名づける。 |
光緒31 | 1905 | 己巳 | 62 | 趙古泥、門人となる。 |
宣統元 | 1909 | 己酉 | 66 | 上海に行き、高之、楊東山らと発起して、上海豫園書画善会を創立する。 |
宣統2 | 1910 | 庚戌 | 67 | 水野疏梅が上海に渡り、王一亭の紹介で呉昌碩に中国画を学ぶ。 |
宣統3 | 1911 | 辛亥 | 68 | 「呉蒼碩印譜」4冊(有正書局)。 |
民国元 | 1912 | 壬子 | 69 | 俊卿を廃し昌碩を名とする。 文求堂・田中慶太郎「昌碩画存」刊行。 西印社が9月に開社し、社友大いに集う。 |
民国2 | 1913 | 癸丑 | 70 | 西印社が創立され、社長に推挙される。 この頃「缶廬印存初集」「同二集」が刊行される。 70歳以降、多く昌碩・缶道人・老缶・聾・大聾と款署している。 |
民国3 | 1914 | 甲寅 | 71 | 「缶廬印存三集」刊行。 この頃、書画印を求める者が多くなる。 画題は花卉が主で、山水・人物等は王一亭、呉待秋、呉蔵龕らに代作させた。 |
民国4 | 1915 | 乙卯 | 72 | 「缶廬印存四集」「苦鉄砕金」(西印社)刊行。 上海「題襟館」書画会の名誉会長に推挙される。 |
民国6 | 1917 | 丁巳 | 74 | この前後から、篆刻も次子・蔵龕をはじめ、徐星舟、方仰之、呉石潜などの代作が多くなる。 季苦斈、爾通より来謁して門弟子となる。 |
民国7 | 1918 | 戊午 | 75 | 妻・施酒71歳で没。 |
民国8 | 1919 | 己未 | 76 | 商務印書館「小説月報」の封面花卉画を編して、「呉昌碩花卉十二幀」を単行出版。 諸楽三兄弟が来たり寓する。 |
民国9 | 1920 | 庚申 | 77 | 「呉昌碩画譜」(文求堂)、林源吉編「呉昌碩先生画帖」(長崎双樹園)刊行。 諸楽三(21歳)、門弟に加わる。 |
民国10 | 1921 | 辛酉 | 78 | 田口木舫編「呉昌碩書画譜」(至敬堂)刊行。 |
民国11 | 1922 | 壬戌 | 79 | 大阪高島屋で呉昌碩書画展開催。 谷上隆介編「缶翁墨戲第一集」(大阪高島屋美術部)刊行。 |
民国12 | 1923 | 癸亥 | 80 | 「缶翁近墨第二集」(上海西印社)刊行。 |
民国13 | 1924 | 甲子 | 81 | 「呉昌碩画宝」(上海書画会)刊行。 |
民国14 | 1925 | 乙丑 | 82 | 5月、人力車が倒れ額に傷を負う。 「呉昌碩花墨冊」(西印社)刊行。 大阪高島屋で書画展が催される。 堀喜二編「缶翁墨戲第二集」(大阪高島屋美術部)刊行。 |
民国16 | 1927 | 丁卯 | 84 | 荀慧生が門弟に加わる。 2月、三子東千邁と杭州塘棲に避難する。 6月9日、次子・蔵龕52歳で没。 11月2日晩、卓上の残紙に最後の一幅の蘭花を描き絶筆となる。 11月3日、中風発作。 6日(新暦11月29日)没。 |